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久々

2006年03月29日 20:07

実は、まだESにくるしんでおります。
まぁ、はじめてなので、できるだけ脳みそを使おうかというのもあるのですが。
どうやら、ESを書くコツは欲張らないことなような気がしてきました。
でも、とりあえず、強みがかけないです。
ほめてください。

いや、自分でも別にええところはないとは思ってないのですが、
具体例がほとんどみあたらない。
しかも、みつかってもそれを簡潔に述べることができない。
簡潔べたなのは、このブログからも明らかですが…。

まぁ、とりあえず、どこかでださないといけないので。
そろそろ出そうかと思います。
その後はウェブテスト。これまた初で、対策もしてません。
いや、なめてないっすよ。


まぁそんな中、ひさびさに学校で作業しております。
今日は半分ぐらいはだらだら研究のことをしてたので、まぁよいのか。
しかし、学校来るのは久しぶりです。
そして、私はどうも春休みがあったようです。
当然ないと思っていたのですが、むしろ成果が全くないということで。
はー、気づかんかった。

とりあえず、こちらもひさびさ、本を読みました。

中島義道『私の嫌いな10の言葉』
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基本的に、いわゆるきれいごとを批判する本です。
なんか、私のまわりにこの人好きそうな人が結構いるような。

まぁ、私はいつもきれいごとをふりかざすので、
それを批判する人の話は結構興味を持って読めるのです。
カウンターパートって、大事なのですよ。
完全に正しい意見て、絶対ないと思っていますからね。

ユダヤのしきたりの一つに、全会一致は無効というのがあります。
今はあるのかしりませんが。
全員が全く同じ意見というのは何かしら狂気の状態やからなのだそうな。

競合する製品にも、どちらにもなぜかすばらしい理由がありますし。
どっちかが間違っているという考え方もできるのかもしれませんが、
どちらも正しいのではないですかね。注目するところが違うのか。

あぁ、いかん。それた。
こんなんやから簡潔にかけんのですわ。

最後の一つをのぞいて、言いたい事は一貫しています。
「普通は」「みんなが*%$&」「相手は」
などは、大多数が正しいとしているだけで、少数派がいることを無視していると。
あるいは、もっと極端に言うと、大多数の意見に従わないやつは異常として排除すると。

そういう感じです。
言われてみると、そういう感じですかね。
文章が読みやすく、説得力はあります。

「相手の気持ちを考える」ことは不可能なのだそうです。
確かに、自分のことすらこんなに書けんし、わからんのに、
他人のことがわかるかというのはあります。
むしろ、自分の考えを相手に押しつけてしまう結果にもなりかねない。
そんな感じです。
相手はこう考えるだろうと、「私が」考えるのです。

ただまぁ、きれいごとを言わせてもらうと、
相手の気持ちを考えようとすること自体は、ええのではないですかね。
いや、そういうのを筆者は嫌っているのですが。
善意はときに暴力になるのですよ。
ダンテかなんかでも、「地獄への道には無数の善意が敷き詰められている」的なことを言ってますし。

でも、やはり相手を考える必要はあると思うのですよ。

「天国への道には無数の悪意が敷き詰められている」ことはないと思うのです。
いや、試練とか困難を乗り越えるという意味ではあるのか。
どうなのかな。


まぁ、多分本の内容とずれています。

おそらく、我々がこの本から学ぶべきことは、ちょっと考えてみろということです。
あたりまえのように「素直」とか、そういう言葉を使います。
しかし、それはほんまに「素直」なのではなく、
「素直やとその人が考えること」になっているのではないか、
考えることが必要やということですかね。

うーむ、なんかうまく書けんな。
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コメント

  1. yoko.m | URL | -

    おひさです。

    おひさです。春休みは他人の引越し手伝ってるうちに終わってしまった。これで同級生はみな京都脱出です。再び1回生になった気分です。

    今日のエントリーは、私が興味を持ってたことにどんぴしゃだったのでカキコさしてもらいました。
    「真実とは、真実として設定されているもの」というのは、構築主義のスタンスの一番簡単な説明なのですが、これって、一般的な行動レベルでは割と人口に膾炙してるよね。でもそこから除外されていて、相変わらず強力な「真実」として存在し続けているものに興味があります。

    自分にとっての常識は他人にとっての非常識、そんな世界を円滑に進行させていくためには、多数の人々が違和感なく遵守できるような、より強力に設定された「真実」が必要なわけです。昔は宗教や王の言葉だったり、(今日やや破綻をきたしつつある)「民主主義」やったりしたわけだけど、これからは「科学」がそれらに取って代わるんじゃないでしょうか。
    で、そんな科学の持つ権力、そしてその権力についてまわる暴力性を、科学に携わる人はどう思ってるのか。これは、たとえば原水爆開発や環境問題で触れられているような具体的な破壊力以上に、真実が持つ規定力や規範力と言うパワーを指しています。人が生きてるか死んでるか(そして生きるべきか死ぬべきか)決定する医学なんか、その筆頭やと思う。

    そんなこと考えるだけ無駄というありがたいお言葉をすでに医学に携わる身内にいただいたのですが、やはり科学の従事者がその権力を意識することで変わってくるものはあると思う。だから、せいぜいその必要性を叫び続けていこうと思ってます。


    でも、もしかして今回のエントリーとあんまり関係ない?しかももっそい長文…ごめんねー。

  2. のざき | URL | VVHQ8TqM

    おぉ、なんかこういうの、めちゃ嬉しいですな。
    私のまわりは理系が多いですからね。
    文系の人のものの見方がめちゃ新鮮です。

    確かに、「真実的なもの」は変遷していくし、
    やはりそういうものに頼りたいという気持ちはありますな。

    科学は、客観性という意味では今までのものとは違うような気がします。
    でも、それに対する見方は、今までのものといっしょですな。
    科学は全てを説明できるわけではないのですよね。
    ほんまに、ごくごく一部を限定的に取り出して、
    そのある特定の現象のみを、近似して説明できる部分がある、ぐらい。
    とりあえず、わからんのですよ。

    なのに、わかっていることを利用したものがあまりに便利なために、
    全てがわかったと錯覚している人があまりにも多いです。
    で、それにのって科学者も科学の万能性を信じてしまう。
    これでは、宗教といっしょですよね。

    でも、そのへんはわかられてない気がします。
    科学と人間の乖離がひどくなっているような。


    脳死とか、絶対これから見方が変わるし、
    今の人間観、世界観とかも、絶対変わります。
    思考をとめたらそこで終わりやと思うのですがね。

    これからどうなるのでしょうね。

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