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知的認識

2006年02月11日 18:16

今日は体調や足の怪我がまだ全快でないことや、
卒論の発表練習で桂まできていることから、バスケは休みです。

「するかせんかまよったら、とりあえずする。」
というのがバスケに対するスタンスやったのですが、
今回はその原則には従っていないですな。ふむ。

「のむかのまへんかまよったら、とりあえず飲む。」
というスタンスはまだ変わっていないはずです。たぶん。

あー、こんなことを言ってたらバスケしたくなってきました。
飲みたくなってきました。


さてさて、昨日の話の続き。

本を読んでいないという理由で直接コメントはしてもらってないのですが、
宇宙飛行士の感動は、それまでに積み重ねてきたものの集大成としてのものではと言われました。

確かに、10年近く訓練をした、その集大成に対する感動は、
ただ単に宇宙から地球をみたという感動よりも大きいでしょうな。

まぁ、我々としては、それでも、
宇宙旅行をするだけで大きな感動を得れるという憧れを持ちたいです。

ある宇宙飛行士は、
凡人でもこれほどの精神的なインパクトを得られるのは宇宙飛行だけやと言っています。
地球にいながら、それほど大きな精神的インパクトを得られる人もいるのでしょうな。


ちょっとそれました。

10年近くの訓練、というバックグラウンドが特殊やということですが、
それははたして人間として特別なことなのでしょうか。

うむ、日本語が変ですな。

言いたい事は、仮に普遍的なものやことがあったとして、
それを認識するのに人間が後天的に得られたものは不必要なのかということです。

まだややこしいですか。

真理的なことがわかるのに、勉強は必要かどうかということでしょうか。


普遍的なものであるなら、勉強という枠は必要にはならんような気もしますが、
私は、必要やと考えます。

本文中でも「知的認識」という行為であるかどうかということが問題になったりしてました。
仮に神を感じたとして、それをなんらかの宗教の言う神と認識するかどうか。
そのへんです。

仮に赤ちゃんを宇宙につれていって地球を見たらどうなのかとか、
宇宙で生まれ、育った人間が地球をどのように捉えるのか。
興味のあるところです。


でも、知的認識とはええ言葉な気がしますな。
知性を得る事で、初めて見えるものがある。
それはあたりまえと言えばあたりまえ。

芸術も音楽も、スポーツも産業も、政治も経済も、
それぞれ、ある高みに達さないと見えないものがあるはずなのですよねぇ。


何かしらの認識を得るチャンスがあるときに、
自分がまだそのような認識を得られる状態になかったら、
それはもうなさけないとしか言いようがないですし。

なんとか、その瞬間にむけて自分を高めていかないといけないと思うわけです。
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