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似非ストイック

2006年01月14日 10:50

また、似非です。
表面的な知識から何かを得ようかという話。


最近、ストイックと呼ばれるときがあります。
ストイックという言葉にもええ意味と悪い意味があります。
ええ意味は、目標にむけて禁欲的に努力する、という感じ。
悪い意味は、自分にも他人にも厳しい、堅物、など。

どちらに思われているのかはわかりませんが。
まぁ、私の友人にはいい意味でストイックな方がけっこういます。
ときどき漏れてきたりしてますが。

とりあえず、私の口(書き)癖が、
「がんばって~せんとあかん」
ですからね。ストイックですか。

努力に対する信仰とでもとれるような。
努力せずに得られるものには価値がないとさえ思っているふしが。
きっとそれは偏見ですな。
がんばってなおさんとあかん。


ストイックの語源は、ギリシア哲学のストア派です。
高校の世界史でもでてきたような。
マルクス・アウレリウス・アントニウスとかですか。

ストア派の特徴はいろいろあるのですが、
徳の実践を重視、理性主義、などがあるそうです。
理性(自由意志)を賛美すると。そのへんはキリスト教にも影響がありそう。

ただ、神に関してはどちらかというと仏教よりで。
全てのものには神が顕れている、という感じです。
別に仏教とキリスト教が相反するものではないとおもってはいますが。
重点的にみているところが、すこし違うのかも。

どこにでも神がいるという考え方は、運命を肯定します。
でも、運命と自由意志は両立するのか。
神、という存在にはその矛盾がどっかにありそうですな。


これに対すると教えられているのが、エピクロス派。
教科書では、快楽を追求、としか書いていません。
じっさい、快楽(=幸福)を追求するというのはあっているそうな。

でも、快楽といってもいろいろあるわけで。
最終的に、肉体的快楽は永遠に満たし続けることは不可能で、
精神的快楽を追うようになり、最終的にはあまり欲望がない状態になるのを理想とするとか。
そこに平安、あるいは満足があるそうです。
…ちょっと嘘かも。これやと、ただ単に燃え尽きた人みたいですし。
でも、肉体的快楽は追わないようです。

仏教もこんな感じですかね。
この世のものは全てつらいものだから、それに対する欲望を捨てて、
その状態ではじめて心の平安をえるとか。
そんなイメージがあります。


ただ、哲学は単独で存在するのではなく、結局その人がどう考えるかです。
孔子の弟子といわれている孟子も、思想としては全然違いますし、
初期キリスト教徒と、中世キリスト教も、全然違う。
なんとか派、とひとくくりにしても、その中には不確定性があるのですよ。

逆に、全員が全く同じ事を信じているという状態は、狂信であると。

物理においての不確定性というものは、何かを完全に確定してしまうと、
それに対応したものは無限のばらつきがあるというようなものです。
有名なところでは、「位置」と「運動量」、
「エネルギー」と「時間」というのもあるような。
「狂信」という確定には、「モラル」が対応してばらばらになるのではないですかね。
その信仰に対して敬虔に生きていく人から、
その信仰のためには何をしてもええんやという人まで、
実にばらばらになってしまう。
でも、行動は後者の人に律されるような。

神様がこのように生物に個体差を与えているように、
(そのばらつきが生物をここまで維持しているとさえいえるのかもしれませんが)、
思想にも多様性があってあたりまえなのかもしれません。


というわけで、いろいろなことを考えていこうと思います。
その一部が誰かの役にたつようなら、それは嬉しいですな。

あー、こんなだらだら書いてる場合ではないですね。

がんばって論文よまんとあかん。
がんばって実験もせんとあかん。
がんばってバスケもせんとあかん。

がんばって、「がんばって~せんとあかん」、と言わんようにせんとあかん。
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