合理化は合理的か
いやはや、今年ももう終わりですな。
はやかった。
5歳のときは人生の5分の1やけど、
20歳のときには人生の20分の1になり、
そのせいではやく感じるという話を聞いたことがあります。
今年は23分の1以上のものやったのかどうか。
なんにせよ、ブログをはじめたことは意外と大きかったですな。
はじめはTつるやKむら駿に言われるままに適当にはじめたのですが。
なぜか、こんなにも書いてしまった。
文章にすることで初めて整理できる部分も多く、役にたったように思います。
その分、読み手をあまり意識していない気がしますが。
独りよがりでした。
まぁ、そんな中でもコメントしてもらったり、教えてもらったりで、
なかなかよい気分転換になったのではないですかね。
さてさて、一応、就活がそろそろ本格化するのですが、
それにむけ、企業の偉いさんがどう考えているのかは、非常に興味のあるところです。
で、こないだそんな番組をだらだらと見ていました。
その中で、○ャノンの社長が、「合理化の追求」ということを挙げていました。
徹底的に合理的なことを追求していくと。
あっているような気はします。
でも、「合理化」はそこまで正しいのでしょうか。
確かに、理がなくては、意味がありません。
が、はたしてその理は正しいのか。
何かしら、よほど簡単なものでない限り、モデル化をするわけで、
そこには誤差があります。
無視する部分があると言ってもよいかと。
果たして、その無視した部分が完全に意味がないのかどうか。
DNAも、一時はがらくたDNAと呼ばれていたものが、
最近ではやはり意味があったとなっています。
複雑系もそんな感じですかね。
無視できない要素が多すぎて、もう少し大きなものを要素とみているのでしょうか。
これは合理的だ、と言ってしまったとたん、それは絶対になるのです。
真理はないというようなこの世の中にあって、そういうときだけは、
それが真理となり、例外に対して不寛容になってしまうのです。
そう考えると、人間はやはり真理を求めるのですかね。
そういう心理はわからなくはないですが。
また、理、とは名ばかりのこともよくあります。
物事の一面だけをみて、それに対応した理的なものを出すことはよくあります。
「利益を上げるためには、従業員の給料を減らして、多く働かせればよい。」
こういうのは、理、なのですかね。
確かに、収益だけをみれば間違いなくプラスになるのでしょうが。
どこかで破綻が生じそうな気がします。
当たり前と思うかもしれませんが、実際に起こっていることです。
○クドの店長とか、タクシーの運転手とか、相当なものです。
○マダ電機の社員の年収は300万をきるとか。
そういうので、長期的にやっていけるのですかね。
あとは、理、を後付でつけることも多々。
物事がおこってから、それに理由をつけることは、比較的簡単です。
「JRの脱線事故は、企業の体制に問題があった。」
こういってしまうのは簡単。なんとでも理屈はつくのです。
「あなたの好きなものをロジカルに説明してください。」
なにかしらの説明はできるのでしょうが、それは後づけです。
何かを好きになったとき、その感情はロジカルに導かれるものではなく、
突発的に起こるものではないのですかね。
結局後づけで大事なのは、フィードバックをかけ、
それを次の行動に役立たせるということなのでは。
科学者によくあるのですが、これはこうだ、ということを発見するだけでは、
知的好奇心を満足させるだけです。
それはそれですばらしいのですが、工学を志すものとしては、
やはり、それを何かに活かさないと意味がないように感じてしまいます。
それなのに、世間にある、後づけの理屈は、言ったらいいっぱなしな印象です。
ひさしぶりにひどく長くなりましたが、結局何がいいたいのかというと、
合理化という言葉を何かを正当化するために使うのは気に食わんと。
あとは、合理化を追求するという言葉はあっていると。
理にあっているか、いつも考え続けることが大事なのではないですかね。
絶対的な合理、というものはおそらく人間の考える範疇では存在しませんし。
相対的に、最もよさそうなものを選んでいくことが大事なのではないですかね。
ふーむ。長い。
でも、こんな長く書けるのもまたブログのええところなのではないでしょうかね。
まぁ、こういう変な理屈が、言いっぱなしにならないよう、がんばりましょうかね。
はやかった。
5歳のときは人生の5分の1やけど、
20歳のときには人生の20分の1になり、
そのせいではやく感じるという話を聞いたことがあります。
今年は23分の1以上のものやったのかどうか。
なんにせよ、ブログをはじめたことは意外と大きかったですな。
はじめはTつるやKむら駿に言われるままに適当にはじめたのですが。
なぜか、こんなにも書いてしまった。
文章にすることで初めて整理できる部分も多く、役にたったように思います。
その分、読み手をあまり意識していない気がしますが。
独りよがりでした。
まぁ、そんな中でもコメントしてもらったり、教えてもらったりで、
なかなかよい気分転換になったのではないですかね。
さてさて、一応、就活がそろそろ本格化するのですが、
それにむけ、企業の偉いさんがどう考えているのかは、非常に興味のあるところです。
で、こないだそんな番組をだらだらと見ていました。
その中で、○ャノンの社長が、「合理化の追求」ということを挙げていました。
徹底的に合理的なことを追求していくと。
あっているような気はします。
でも、「合理化」はそこまで正しいのでしょうか。
確かに、理がなくては、意味がありません。
が、はたしてその理は正しいのか。
何かしら、よほど簡単なものでない限り、モデル化をするわけで、
そこには誤差があります。
無視する部分があると言ってもよいかと。
果たして、その無視した部分が完全に意味がないのかどうか。
DNAも、一時はがらくたDNAと呼ばれていたものが、
最近ではやはり意味があったとなっています。
複雑系もそんな感じですかね。
無視できない要素が多すぎて、もう少し大きなものを要素とみているのでしょうか。
これは合理的だ、と言ってしまったとたん、それは絶対になるのです。
真理はないというようなこの世の中にあって、そういうときだけは、
それが真理となり、例外に対して不寛容になってしまうのです。
そう考えると、人間はやはり真理を求めるのですかね。
そういう心理はわからなくはないですが。
また、理、とは名ばかりのこともよくあります。
物事の一面だけをみて、それに対応した理的なものを出すことはよくあります。
「利益を上げるためには、従業員の給料を減らして、多く働かせればよい。」
こういうのは、理、なのですかね。
確かに、収益だけをみれば間違いなくプラスになるのでしょうが。
どこかで破綻が生じそうな気がします。
当たり前と思うかもしれませんが、実際に起こっていることです。
○クドの店長とか、タクシーの運転手とか、相当なものです。
○マダ電機の社員の年収は300万をきるとか。
そういうので、長期的にやっていけるのですかね。
あとは、理、を後付でつけることも多々。
物事がおこってから、それに理由をつけることは、比較的簡単です。
「JRの脱線事故は、企業の体制に問題があった。」
こういってしまうのは簡単。なんとでも理屈はつくのです。
「あなたの好きなものをロジカルに説明してください。」
なにかしらの説明はできるのでしょうが、それは後づけです。
何かを好きになったとき、その感情はロジカルに導かれるものではなく、
突発的に起こるものではないのですかね。
結局後づけで大事なのは、フィードバックをかけ、
それを次の行動に役立たせるということなのでは。
科学者によくあるのですが、これはこうだ、ということを発見するだけでは、
知的好奇心を満足させるだけです。
それはそれですばらしいのですが、工学を志すものとしては、
やはり、それを何かに活かさないと意味がないように感じてしまいます。
それなのに、世間にある、後づけの理屈は、言ったらいいっぱなしな印象です。
ひさしぶりにひどく長くなりましたが、結局何がいいたいのかというと、
合理化という言葉を何かを正当化するために使うのは気に食わんと。
あとは、合理化を追求するという言葉はあっていると。
理にあっているか、いつも考え続けることが大事なのではないですかね。
絶対的な合理、というものはおそらく人間の考える範疇では存在しませんし。
相対的に、最もよさそうなものを選んでいくことが大事なのではないですかね。
ふーむ。長い。
でも、こんな長く書けるのもまたブログのええところなのではないでしょうかね。
まぁ、こういう変な理屈が、言いっぱなしにならないよう、がんばりましょうかね。
コメント
長い。。。
いやいや、それだけ出していただけると私も嬉しいです。
人の意見というものは、ほんまにええですからね。
外部からの供給がないと、自社生産ではどうしようもないのですよ。
**の観点で、の**は本当に、無限にありますからね。
それをまずは明確にすることが、
合理化を追求するという観点で合理的なのかもしれません。
人の意見というものは、ほんまにええですからね。
外部からの供給がないと、自社生産ではどうしようもないのですよ。
**の観点で、の**は本当に、無限にありますからね。
それをまずは明確にすることが、
合理化を追求するという観点で合理的なのかもしれません。
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ないような気がします。
「○○という観点での」という言葉を直前においてやる必要がありそうです。
例えば経営において合理化することを考えた場合、
「企業の持続的成長」という観点での合理化ということになる。
この観点では、
「利益を上げるためには、従業員の給料を減らして、多く働かせればよい。」
というのは合理的といえない。
不満、ストレスがたまって仕事の効率が悪くなるので、持続的成長につながらないから。
のうさんが言うように、一時的な利益の増加にはつながるかもしれませんが。。。
自分は常々思ってます。
世の中の事象は、様々な「観点軸」がある多次元的なものであると。
ひとつの軸を引っ張り出してきたときは、
「絶対的な合理性」あると思います。
でも、軸を複数にした時点で、
つまり、実際の物事を考えた時点で
「相対的な合理性」しかなくなるのかなと思います。
結局のうさんと同じ結論ですな。
今は自分の中の「観点軸」を増やす時期。
いろんな考え方に触れたいと思う今日この頃。