FC2ブログ

エセ論理

2006年02月02日 02:52

X線も、強度を得るために、5時間放置コースの設定をしてきました。
故に、暇です。論文でも読もうかとも思いましたが。
…あくまで、思っただけ。


日曜日に、電電の人たちと、ちょろっと飲みました。
就職の話でもしてみようじゃないか、ということで。

悠悠亭というところに行きました。
はじめ、oyajiの悠悠亭を予約していたのですが、
なぜか普通の悠悠亭に。

おっさんたちのグループと、若い女性のグループに囲まれたために、
低周波から高周波まで、完全にノイズにまみれてしまいました。

ひどいS/N比のために、もともと通らない私の声は、
完全にシャットアウト。
下がるテンション。

まぁ、そんな中でも、なかなか意義のある話はできたかと思います。

ダイスケさんにmixiでほめられた中に、
「周りにはいつもええ人達が群がってる」
というのがありました。
これは完全なほめ言葉であり、こういうほめ方ができるようになりたいものです。
うれしいことこの上ない。

というわけで、そういう人と話すことで、いろいろ得たと。


話すことで自分の気持ちが整理できるというのもあります。

Yじに、
「なんか言ってることをきくだけだと、電子部品という選択は不思議」
という事を言われました。

私の考えには矛盾があるようです。

「人とか地球とかの役にたっているという実感がほしい。」
という言葉と矛盾しているのです。

むしろ、多くの人の役にたとうというなら、
たとえばインフラ関連とか、あるいは世界を股にかける商社、
公務員というのも一つの選択肢であるかもしれません。

でも、電子関係に進む気がします。

それは一つには、興味ですな。
何よりもそれがあります。
おもしろいのですよ。そういう話を聞くと、どきどきするのですよ。

もう一つは、役にたつ、立ち方。

結局、何かしらの給料がもらえるということは、
何かしらの役にたっているのですよね。
これもYじに言われて思わされました。

こないだも、とみぃのコメントへの返信で使ったのですが、
変なたとえを。

理系職は、酸素のようなもの。
で、文系職は心臓や血液のようなものではないかと。

人間を生かすという意味では、
心臓や血液の方が実感されやすいし、むしろ大事かもしれません。

ただ、酸素がないと、ほとんどの生命は息絶えるわけです。
そして、酸素が多すぎると、それは爆発の危険性も。

酸素は意識されません。
ただ、確実に必要なものであります。
どちらを選ぼうかしら。


あと、昨日は日本○ニシスの説明会に行きました。
非常によかったですな。
ようやく、少しSEとかのイメージがつかめたかも。
部長ともしゃべりましたし、課長ぐらいの人ともしゃべりましたし、
入社3年目の人ともしゃべりました。
それぞれ全然違うことをしゃべってくれたので、非常によかったです。

少し、顧客のニーズが重用視されすぎているような気はしました。
まぁ、そういう職業やし当然なのですが。
ただ、顧客をみているのに、ちゃんと社会を意識していましたね。
そういう意識は大切です。
メーカーはそういうのを一番もたないとあかんのですが、
なんでか、そういうのはあまり感じたことがありませんな。


…うーん。
私の書くことは、すべて電気電子を肯定するためにあるようです。
結論が先にあるとか、
これは論理ではなく、屁理屈ですな。
もうこれ以上書くのはやめましょう。

いかんなぁ。
でも、これだけ理屈をだして肯定しようとしているのは、
まさに悩んでいる証拠なのですかね。ふむ。

どこにもない

2006年02月02日 00:26

現在、桂にいます。
明日が修論の提出日なので、一応待機という感じです。

たまたまパソコンなしで一日過ごしていたのですが、禁断症状がでました。
なんか、うろうろして、人の邪魔ばかりしていました。

今は共用のパソコンで書いています。
やはり、依存症です。テンションあがってきました。

右隣ではM1の友人二人がナノテクの記事にテンションがあがっています。


でも、書くことはあまりありません。

昨日鍋をしたぐらい。
でも、冗談でもいらんことが書けないので、やめておきましょうか。
とりあえず、私は日本酒を飲むと、寝るということですよ。


あぁ、そういや、『ユートピア』読み切りました。
B000060NH8.jpg

完全に、勘違いをしていました。
理想郷は理想郷であるのか、という話であるかと思ったのですが、
そうではなく、トマス・モアの理想郷の話。
前にも言いましたが、造語で、「どこにもない国」の意。

やはり、自分の尺度で物事を考えるからいけないのですよね。
解説を読んで、実感しました。

書かれたのは500年前です。
訳されたのですら50年前。
でも、全然色あせませんな。
500年たっても、人間は相変わらずなようです。
この本は当時の社会批判の本でもあったようです。

いつも、外国の本は訳のところでつまずくのですが、
今回の訳は非常によかったですね。
内容を完全に理解して、それをちゃんと訳しているような。
解説とかはいつも蛇足でしかないのですが、
今回に限って言えば、解説を読んでから本文を読んでもええぐらい。

本筋とは違うのですが、やはり理想郷は少し怖い。

私がユートピア人を見て恐ろしいと思ったのは、
彼らは寛容で、努力家で、面白味もあるそうですが、
それをよしとしない人には容赦ないのです。
自分の与えた箱庭の中にいる限りはええが、
それ以上をほしがる者には容赦ないというか。
私にもそういうふしがあるかもしれません。

やはり、思想には多様性が必要です。

多様性が必要なのは、変化に対する適応力があるためだそうです。
人間は、無駄(多様性)を必要とする生き物なのだそうな。
さっきhorigさんが言ってました。

トマス・モアが生きたのも、変化の時代。
ルネッサンスや宗教改革で、中世の常識が通用しなりはじめている時代です。

そういう中で、非常に悩んでいるのが、この本を見ていてもよくわかります。

理想郷を述べたあとに、
「本当にこれが正しいのか、いまいち納得できない」
と言っています。
まだ、模索の中なのかもしれません。

トマス・モアの置かれた状況は大変なものであったそうです。
まぁ、おこがましいのですが、共感する部分があります。

彼の理想郷は、合理性を追求することと、
信仰を守ることを両方追い求めているようです。

ただ、これはどうしても矛盾してしまいます。

矛盾しないためには、人間がすべて善であるという前提が必要になります。
K産主義が破綻をするのも、人間が善であることを前提にしているからだそうですが。

なんというか、合理的であることと信仰が矛盾することが残念というか。
理性は神様が与えてくれたものであるはずなのに、
理性を追求すると信仰と矛盾するところがでてくるというのは皮肉です。


あるいは、矛盾はしていないのかもしれません。

論理は感情を呼び起こす手段でしかないのかも、と最近思います。

今まで経済とか政治とかはあるていど合理的にやっていると思っていたのですが。
でも、どの領域においても、感情が最後にでてくる。

誠意とか、協調性とか、そういうものがきれい事ではなく、
必要になっているようです。

なら、ただ単に論理的であるよりは、
感情を相手に伝えられる人の方がよほどええのではないかと。

結局、何かしらを相手にさせるときは、
感情を呼び起こさないといけないのですよね。

たとえば、威圧感でもええと思います。
あるいは、母性本能をくすぐる系でもええと思います。

この人の言うことやからしてみようか、
と言われるようにならんといけませんな。

まぁ、そのためにはもちろん論理性も必要です。
雰囲気だけでもだめですしねぇ。


もうひとつトマス・モアのすごいと思うところは、
ユーモアがあったところ。

彼は最終的に国王に殺されるのですが、絞首台で、
「私のひげは国王に罪を犯していないのだから、きるのはかわいそうだ。」
と言って、ひげを絞首台からのけたそうです。

我々にはできそうもないですな。

このエピソードは、司馬遼太郎とアルフォンス・デーケンの対話でも紹介されていました。
あと、トマス・モアは立花隆の中で紹介されていたエラスムスとも親好があったようです。
やみくもに読んでるわりに、意外とつながってきました。うひょう。

ユーモアというものは、
非常に理性的であるが、感情をほぐすものです。
矛盾に対する一つの回答なのではないですかね。

まぁ、私はユーモアがないのですよ。
あいかわらずやたら堅い文章ですし。

せいぜいだじゃれでも言うぐらいですな。
理性ばかりではいかんじょう、という感じですかね。

年をとると、ごり押しができるようになりました。