友人の父親がお亡くなりになったそうです。
詳しい話は全然聞いていないので、どういう状況で亡くなったのかはわかりませんが。
その友人は非常に誠実で、そのことからも、いい父親であったのでしょう。
死について少し考えてみましょう。
我々はみな、死にますよね、残念deathが。
私は死がこわいです。
クリスチャンであるなら、本来であれば天国を想像し、
確信や安心感をもって死んでいけると思うかもしれませんが。
私がだめ信徒やからなのか、それともこれはどうしようもないものなのか。
いや、私がこのように弱いからこそ、神が必要なのでしょう。
そうであると信じています。
死んでからどうであるか、そのことに深く考えすぎるのはあまり意味がないと思います。
永遠に消え去るのでしょうか?
それとも天国や地獄に行くのでしょうか?
あるいは雲の上でのんびりしてたりするのでしょうか?
信じることはできますが、それは死んでからしかわからないことで、
今まで数千年の間、数千億にものぼる人たちが知ろうとしてわかっていないことなので、
凡人である私には到底わからないことです。
しかし、いずれくる死に向かい、準備をすることは可能でしょう。
memento mori
ミスチルの「花」のサブタイトルですが、
これは中世修道院の言葉で、挨拶のように用いられていた言葉だそうです。
意味は「死を忘れるな」。
常に死を意識し、それに向かって精一杯生きていく。
それが理想的ではあります。
死を意識した文化としては、日本の侍文化もその最たるものでしょう。
あれだけ潔く死ねるという精神状態はどういうものなのでしょうか。
今、日本に死にたがりが多いことと、関係はあるのでしょうか。
私はどうなのでしょう。
そのとき、いろんな人に泣いてもらえるような人物になっていられればと思います。
自分の死が誰かの死生観をポジティブにもっていけるようなものであればと思います。
前にも言っていた、「死生学がわかる」
は非常にいろいろな人の死生観について掲載されています。
医者やホスピス、あるいは作家、教師などの死に対する見方がわかりやすく。
たまには考えるのもいいことなのですよ、きっと。
最近の日本は死をタブー化しすぎて、
死が非常に未知な、おそろしいものにしかみえなくなっていますし。
あるいはあまりにも簡単な、リセット可能なものになっていますし。
人生にセーブポイントはないですからね。
これから多くの人の死や生を経験し、死生観を創っていくわけですが…。
どうなるのかな。
私は意志が非常に弱く、おそらく偉人達のように、
何かを守るため、創るために死ぬことはできないような気がします。
踏絵は踏んでしまいそうな気がします。
でも、何か、自分にはこれがあった、
あるいは十分生きたと思えるような生き方をしたいと。
今のままでは、だらだらと死んでいっているような気がします。
何かを変えなくては。
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